僕とオタと彼女⑤

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674 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/04(月) 23:20:35
7日朝。
重く辛い。自室のベッドから這い出ることができたのは奇跡的だった。
またいつものように白いシャツに手をとおして、ネクタイを締める毎日のはじまり。
体温計を見ると39度ちょい。
最悪のスタートだ。
家でもめるのは勘弁だったから、何事もないように玄関を開け
見慣れた商店街を抜け、駅へと向かう。
すれちがう女子高生の群れ。姫様といくらも違わない年の女の子たち。
ほんのちょっと人生のネジの調整が狂っただけで
あの女子高生たちのようには笑うことのできなくなった姫様。
ぼくはポケットの小銭を自販機に投げ入れて、てきとうなボタンを小突く。
出てくるのはお決まりの、どれを選んでも大差ない味の缶コーヒー。
ぼくはひょんなことから、ふつうとは違う、スペシャルな女の子に出会った。
名はリカであり、恵子であり、姫様。
かつ、そのどれとも違うぼくの見知らぬ女性。
ときどき踏切の遮断機が閉じられ、車輪のついたでかい鉄の箱がいくつもとおり過ぎてゆく。
都心へ向かう人間専用コンテナ。
その毎日の旅路は合計すると、きっと月よりも遠い。
ぼくはその旅路の途中で姫様を見つけた。
姫様は線路の脇を徒歩ですすむ難民だった。
色褪せたぬいぐるみが唯一の連れ。


小石につまずいただけで、終わってしまいそうな危なげな旅。
その連れはいまぼくの黒皮の四角い鞄の中にいて、
持ち主の暖かい手のひらへ帰ることを切望している。
自分の居場所は姫様のごちゃごちゃのバッグの中だと確信している。
昨夜、忽然と消えていなくなった姫様。
なんでぼくの手元にクマを残したんだろうな。
漠然とした考えが浮かんでは消えるけど、熱に溶けて頭からこぼれ落ちる。
そのうち電車がホームに滑りこんできて、ぼくは女子高生といっしょに押しこまれる。
軽量ステンレスとポリカーボネイトの無機質な筒。
その内側では、ぼくは自分のふりをしながら呼吸する別の何かだ。
ネクタイモードにきっちり合わせることができる自分を、ぼくは誇らしく思ってるけど
オタの冷ややかな視線を堂々と受け止めることができない。
ひょっとすると、憐れんでもらうのはぼくの方なのかもな。
変化を嫌って生きてきたぼく。
置き去りにされたとき、ぼくはクマを握ったまま泣くことしかできなかった。
あの夏の姫様のように。
あの冬、弟に置き去りにされた姫様のように。

 

 

675 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/04(月) 23:21:26
出社して同僚と手のひらを合わせるようにして叩き合い
明けおめと挨拶して
デスクに座ってPCを起動する。
たった1週間ほど前にも、ぼくはここにいた。
あの日を大昔のように感じる。
たしか姫様からの営業メールが届いた日だった。
年末にひとつ面倒があり、晦日から日付が新年へと変わるまで
同僚達と粘ったその痕跡がTFTに表示される。
素晴らしい仕事ぶりじゃないか。
誰しも仕事の精密な歯車になることは難しい。その困難さの履歴だ、これは。
ぼくは指の先で更新されたドキュメントを追い
背後に立った背の高い男と含み笑いを交わした。
なんの問題もなかった。
ぼくらの努力は報われて、万事は順調。
そんなわけでぼくは帰ることに決めた。
なにがなんでも、すぐに電車に乗り、暖かい自室のベッドで眠ると決めた。
信頼できる同僚のアドレス宛に、そのいいわけを書いた短いメールを送信したときだったかな
ケータイが震えて、メールを受信した。

>クマ返せ~
>電話しなさいってメモしたでしょ

姫様からだった。
胸に生暖かい鼓動が一拍あって、それは鳥肌をともなって四肢の先まで広がった。
続けてもう一通。

>ただいまデート美少女無料キャンペーン中!
>1分以内にレスくれたヒロくんには、美少女添い寝の特典付き!
>会いたいよ~。ヒロぉ

30秒ジャストでレスした。
会いたいとだけレスしてから、場所を追伸した。
美少女って微妙な表記には触れなかった。
フロッピィのこともあるし。

 

 

676 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/04(月) 23:22:15
自宅最寄り駅のカフェ。
改札を通過する乗降客が見渡せる席に姫様はいた。
ぎこちなく手を振るぼく。
彼女は急いでやって来て、ぼくの額に手を当てると困ったような顔をした。
熱があるね。ぜんぜんよくなってない。と言った。
彼女はスーパーに寄ってから行くと言い、タクを捕まえてぼくを押しこんだ。
風邪もここまでひどいと、歩くことさえつらい。
彼女はその日、フロッピィのことはひと言も口にしなかった。
ぼくはというと、気まずさを感じながらもやはり口にはできなかった。
そうしたとたん、彼女の触れてはいけない何かが溢れる気がしたからだ。
ぼくの知らない何か。だけどとてつもなく厄介だということは、なんとなく分かった。
彼女自身、おとぎ話の最初の滑りだしをどうやって扱うか
もてあましているようにも見えたからだ。
どうしたことか罪の意識はあまり感じられなかった。
もしかすると、ぼくは彼女の口から事の真相の一部始終を
聴きたいと考えているのかもしれなかった。
目黒で過ごした夜の底に転がった、なめらかな彼女の背中。
ぼくはバッグの中身から逃げるように、彼女の細くて華奢な腕を求めた。
あの夜からぼくはほんとうは知っていた。うすうす勘づいていた。
あの中身はぼくには重すぎるんだってこと。
そして彼女にとっても。


でも、ぼくはそいつをブートしてしまった。
どこかでカチリと音がして、不可視のサーボモータが静かに作動をはじめ、長い夜を巻き取ってゆく。
もちろん停止スイッチなんてない。
夜が巻き取られて消えてなくなってしまうまで機械の動作は続く。
そのときぼくはどこで何をやってるんだろうな。
少なくとも姫様はぼくの側にはいない気がした。
頭が痛かった。熱はひどくなる一方だった。
タクが見覚えのある郊外型ショッピングモールの入り口で小さく旋回して震えて止まる。
姫様はぼくのためにレモンと蜂蜜と
それから何か細々とした雑貨を紙袋に詰めて戻ってきた。
それからショートケーキの小箱。
この前手ぶらだったから。と彼女は言った。
ぼくは鞄からクマを取りだして両手で支え、ぺこりとお辞儀させた。
彼女の気遣いには、ちゃんとお礼しなきゃいけない。
彼女はクマの頭を見て笑った。
新しい帽子。ペプシのキャップ。
クマはちょっとした帽子コレクターになりつつある。

今日書いてるときに流れていた曲
シャルロットマーティン/Charlotte Martin 「on your shore」

751 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/06(水) 00:08:39
タクが玄関前に横づけして止まると
母が待ちかまえていたように玄関から出てきた。
まるでぼくの帰宅を知ってたみたいだ。
なんでだろう?
たぶん不思議そうな顔してたんだろう。
ヒロのお母さんに電話で連絡しておいた。と彼女は言った。
二度も突然やって来るわけにはいかないんだし。
お互い様でしょ。と言って彼女はつくったような無表情になった。
彼女の顔から笑顔が消えるとひどく冷たく見える。
彼女はぼくが見たフロッピィのことをほのめかした。
ヒロのシステム手帳とケータイの中身ををすべて拝見しました。
ヒロの住所と会社の住所。太田君の住所と、その他すべてのアドレス。
重要なところはぜんぶわたしのメモリに転載済みなんだから。
まぢですか。


すると、ぼくのお気に入りのパンチラサイトもばれたんだろうか。
ってことは、ほんとは制服ミニスカ好きってこともばれたんだろうか。
飲んでるときに教えてもらい、たしかURLを手書きで1ページに大きく書いたはずだ。
彼女ならURLを一度開いてみるくらいのことはやったかもしれない。
それからオタ。ごめんよ。おまえの圧縮前の名まで知られてしまった。
ぼくは叱られた子供みたいに、シートで小さくなるしかなかった。
クマを握ったままなのでよけい間抜けに見えたはずだ。
母の小言がぼくをとらえる前に、2階自室へ急いだ。
姫様も心得てて、母の注意を自分に集め、いつの間にか台所へとふたりで消えてしまった。
シャツを脱ぎ捨て、ネクタイを放り投げ、ユニクロのスウェットに着替える。
カーテンを開けると、灰色のたくさんの雲に反射した光が部屋の中に溢れた。
よく晴れた日の日射しは部屋に暗い影をつくる。
曇った日のほうが部屋の中は明るい。
均一にまわった光の中では、ぼくの部屋はあまりにもふつーに見えた。
なんの面白みもない、個性の欠片すらない仕事に忙しい独身男の部屋。
やたらと山積みになってる音楽CDも、沢山の雑誌も
音楽に造詣深いっていうよりは刹那的な趣味。
むしろオタクの嫌な臭いが漂ってきそうに見える。
ベッドに潜りこむと、ぼくは落ちるように眠った。
眠りに落ちながら、階下で姫様の笑う声を聞いた。
細くて高いのにちっともうるさくない。子守歌には最適の音域。
その子守歌には間違いなく、
ぼくを包みこんで落ち着かせてくれる魔法のような力があった。
眠りの導入をうながしてくれる、日なたの匂いにも似た清潔な安心感があった。

 

 

752 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/06(水) 00:09:15
汗をかいていた。
夕食を運んできてくれた彼女の気配で目覚めたとき
布団の中はもう病人の匂いに湿っていた。
彼女はぼくの胸に、冷たいひんやりとした指先を置き
「ヒロかわいそう」と言った。
「ごめんね。今夜はずっといっしょにいてあげるね」と言った。
ごめんね、と謝るのは横須賀の夜のことかな、と思った。
そう聞いたとき、ぼくは彼女が横須賀を訪れたことを
やっぱりちっとも後悔してなくて、満足しているんだと確信した。
だからここにいるよ。
ヒロのそばにいるよ。
そんな意味かなと思った。


本意がつかめず、いぶかって姫様をみつめると、自然に目が合った。
優しげなのになんとなく怒ってる感じもする、
カラコンでもないのに、うっすらとブラウンの混じった大きい瞳。
ぼくの知らない風景をたくさん映してきたんだろうな。
渋谷の町はずれのドラム缶と焚き火に燃えあがる、いろんな欲望の光彩。
虹彩に刻まれた残酷な風景。閉じることもかなわなかった。
姫様はそのぜんぶを受け止めるには若すぎたんだと思う。
すすり泣きと落胆。
そうやっていくつもの晩を過ごしてきたんだろうな。
いまでも帰る家すらない。
姫様はいつだって、家には帰りたくないと言った。
それを実行に移すために若い女の子がとれる選択肢は
たぶん、いくつもない。
姫様の瞳の奥に眠る風景。
ネオンサインと、その明滅に沈む渋谷の街。
でも、よく考えてみろ。とぼくは自分に言った。
ぼくにしたところで、それは同じなんだ。
ぼくだけが特別じゃないんだ。
ぼくは金を支払い、気の済むまで
彼女を渋谷の夜の中に縛りつけようとしている。

 

 

 

753 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/06(水) 00:09:54
プラスチックの白いスプーンが
やけに子供っぽく見えて
姫様がそれを手にしたとき、ぼくは自分で食べる。と言った。
照れくさかった。
起きるのは面倒だったし、正直食欲はまったくなかった。
でも姫様がわざわざ作ってくれた雑炊なら、食べる。
無理しても残さず食べる。
いつの間にかストーブに火が入れられていて、部屋は暖かだった。
彼女はぼくが食べる横で
どうやって作ったかとか、ちょっとした工夫があるとか
母といろいろ話しをしたとか、とりとめのない話をした。
そのうち、興味が部屋に積まれたCDに向けられ
そのうちの一枚を借りてってもいいかと訊いた。
ぼくは、ただうんうんとだけ頷いた。
言葉を口にしようとすると咳になる。それに体が重かった。
それから雑炊が美味くて、食べてるうちに食欲が湧いてきたほどで
そっちに集中してたせいもある。ぼくはサラダまできっちり平らげた。
ごちそうさま。手を合わせると彼女は喜んでくれた。
ベッドに横になって、目を閉じる。
彼女の指先を唇に感じた。


形のいいネイルのさきっちょが、ぼくの口の上をかすめて踊る。
彼女は何かの歌を歌っていた。かすれるほど小さい声で。
そして歌いながらぼくにこう訊いた。
「どこまで分かったの?」
フロッピィのことだと思った。すぐにそうだと分かった。
ぼくは何も言わなかった。実際理解できてることなんてひとつもない。
だから答えることができなかった。
「ヒロ。お願いだから、ヒロからは見えないわたしを追いかけないでね。
そこで立ち止まってね。もうじき終わるから。もうちょっとでぜんぶ終わるから」
彼女はそう言って、ぼくのお腹のあたりに頭を重ねた。
もうちょっとですべて終わる、と言った。
間違いなくそう言った。
ぼくは目を閉じたまま、何も答えなかった。
やっぱり重すぎる。
ほらみたことか、とオタの叫ぶ声が聞こえる。
あの夜はどのくらい巻き取られたんだろう。
ぼくらにはあとどのくらいの時間が残されてるんだろう。
何も答えないまま、ぼくは眠りの中へ逃げこんだ。
彼女の声。
それは細くて子守歌にはぴったりのやわらかさ。
ここにいるよ。
ヒロのそばにいるよ。

 

 

ぼくとオタとお姫様の物語 二夜
http://love3.2ch.net/motenai/kako/1097/10971/1097126709.html

 

7 名前:70 ◆DyYEhjFjFU  sage 投稿日:04/10/07(木) 14:35:07
8日朝。
子供の頃からずっと通いつけの主治医のいる病院。
彼女は待合室の平べったい長椅子に座っている。
茶色で合成皮革の長椅子はところどころに穴があいていて
ガムテープで補強されている。
何度となく見てきたこの茶色の長椅子に座っていると、ほんとうに気が滅入る。
たぶん病院の陰鬱なイメージが刷りこまれてるんだろう。
主治医は高齢で真っ白い髭が自慢の、子供に優しい爺さんだった。
安静に。これが処方箋だった。
ぼくはこの言葉を受けとるためにここに来る。安静に。
この病院で2種類以上の薬を処方されることはまずなかった。
だからぼくはこの爺さんが気に入っている。
飲んでもいいし、飲まなくてもいい。爺さんはそう言ってるみたいだった。
問診と触診が終わって、シャツに手を通してると爺さんはぼくにこう言った。
「今日はあのお嬢さんといっしょにいなさい。そばにいて看病してもらいなさい」
ぼくが笑いながら、なぜです? と訪ねると爺さんはあっさりこう言ってのけた。
若い男の風邪の特効薬は、若い女性だ。
からかうようにぼくに言って、それがよほど可笑しかったのか声に出して笑った。
ぼくは小さかった頃、この爺さんによく釣りに連れていってもらった。
ペンキの剥げた小型トラックの荷台に乗って、海岸を目指すのが好きだった。
弟は釣りに熱中してたけど、
ぼくは荷台に揺られる道中そのものが好きだった。
海岸線道路のコントラストの効いた強い日射し。蝉の声。
ぼくの幼少の頃は平穏そのもの。


どこにいっても安全がもれなく無料でついてくる。
大人たちがゆるく張った監視の目から外に出ることのない毎日。
でも姫様はそうじゃなかった。
風邪に倒れたとき、姫様はただ寝てるしかできなかったんじゃないだろうか。
ひょっとするとあのやしろのどこかに、ひっくり返って
ただじっと天井の絵を眺めているしかできなかったんじゃないだろうか。
あの晩、彼女は目を閉じ、欠落した絵を克明に復元した。
ちいさな唇から漏れた言葉が、闇の中で結晶化して、美しかった絵の細部を浮かびあがらせた。
その記憶の正確さは、長いことあの絵だけを見て過ごした証拠だ。
小さな女の子が、あのカビ臭い絵をそっくり記憶してしまうほどの動機ってなんだ?
いや、動機なんてたぶんない。不自然すぎる。
そういう状態に追いこまれたんだ。
彼女はただうずくまって、熱が去るのをじっと待っていた。
目を開けば天井の絵が視界いっぱいに広がる。
そのとき弟は、彼女の側にいて額に浮いた汗を拭ってあげたんだろうか。

 

 

8 名前:70 ◆DyYEhjFjFU  sage 投稿日:04/10/07(木) 14:35:45
待合室に戻ると彼女の背中が見えた。
長椅子にちょこんと座ってバッグをかき回していた。
ふり返る彼女。
おかえり。よかったね、何事もなくて。
そう言った彼女の手には一枚のフロッピィが握られていた。
プラスチックの透明なケースといっしょに。
彼女は別に悪びれた様子もなく、ぼくの目に黒い四角の板をちらつかせた。
頭の近くでくるくると人差し指を巻く仕草。
その指先には、彼女の細い髪が巻き取られていた。一本だけ。
彼女はフロッピィの磁気ディスクをガードする金属のシャッターをカチャと開いて
いま引き抜いたばかりの自分の髪をシャッターのスリットに通し
くるっとディスク本体に巻きつけた。
ライターを取りだしてさっと炙る。
ぼくは笑った。
そういうことだったのか。
用心深い姫様。


フロッピィには封がほどこされてた。
あの目黒のホテルの暗がりの中では、とてもじゃないけど見えなかった。
いや、ほかのどこの場所でだって気づかなかった。
べつにヒロを疑ったわけじゃないんだよ、と彼女は言った。
このフロッピィは他にも数人の手を過ぎていくから。
フロッピィの封は脆い。慎重に扱わないとすぐにほどけて落ちる。
ブートなんてしようものなら誰かが中身を閲覧したとすぐにわかる。
ファイルの制作者は仲間すら信用していないってことか。
彼女は慎重にフロッピィを透明ケースに収めた。
今日はお家で寝てようね、と彼女は言った。
そのとき、ぼくはとうとう我慢ができなくなって彼女の手を握って座りこんだ。
どうしても訊いておきたかった。
訊いておかなくちゃいけないと思った。
いまはいい。彼女が目の前にいるから。
目の前にいれば安心感もある。
でも彼女のいない夜はどうだ?
ぼくはベッドの中でまんじりともできずに過ごすことになる。
きっとそうなる。そんなの絶対勘弁だ。

 

 

10 名前:70 ◆DyYEhjFjFU  sage 投稿日:04/10/07(木) 14:36:54
「なあ、恵子。そのフロッピィが君を危険にさらしたりすることってあるのかな?」
彼女はぼくが突然動いたために、驚いて椅子の上を滑って後退した。
ぼくと彼女の距離が開く。
そのせいでお互いの握り合った手が吊り橋のようにぴんと張って、垂れた。
彼女は首を振った。それから、絶対にそんなことはないと小声で言った。
「ありがとう。じゃあもうひとつだけ」
少し安心できた。
彼女がぼくを気遣ってとっさに嘘を言ったのかもしれないけど
だとすればこれ以上訊いたって無駄だ。
でもぼくは安心することにした。そう信じることにした。
「あまり喋りたくないよ。ヒロ」
そうじゃないんだ。そういうことじゃない。ぼくはかぶりを振った。
「オタの、あ、えっと太田のアドレスってどうやって拾ったのかな」
彼女はごめんね勝手に見ちゃって、と言ってからこう続けた。
ホテルに泊まってた夜。


二日とか三日前。もっと前?いつだったかよくわかんない。
画像がPCに映ったままになってて、真っ黒で、それを閉じると
ブラウザにメールボックスが表示されたままになってた。
明け方。ヒロはうとうとしていた。
彼女はPCに刺さったままのフロッピィには触れなかったと言った。
たぶんヒロがそっと返してくれると思ってた。
あの目黒の夜からそれは分かってた。
自分のたいした情報活動ぶりに情けなくなった。
ゴーリキーパークあたりに出演してたら
きっと一番最初にヴォルガの流れに浮かぶ死体になっただろうな。
いろいろ訊いてごめん。とぼくは彼女の髪に触れた。
コーヒーでも飲んでいこう。
会社にも連絡入れとかないと。
彼女はそのあと用事があると渋谷へ戻って行った。
彼女はいったいどこで荷物を取り替え、着替えをし、また綺麗になって戻ってくるんだろう。
毎日必ず戻ってゆく渋谷の街に何があるだろう。
そんな疑問がいつも浮かんでは消える。
たいして重要じゃないことは分かってる。
質問することは禁じられた。まあ、いいや。


女の子の言うことはいつだって正しい。正しくないときには喋らなくなる。
病院のまわりには、いまでも畑がちらほら残っている。
乗り捨てられた赤いバン。
そいつが病院の正面の畑の角に鎮座していて
なぜこんなところで廃棄されたままになっているのか理由がわからない。
ガラスは全部取り除かれ、いまでは雑草の苗床になってて
もしかすると春には風変わりなオブジェみたく見えるのかもしれない。
タンポポとかバターカップ。その他、名も知らない小さな花。
姫様の記憶もいつかこうなるときが来るんだろうか。
色あせてういういしくなるような。

今日書いてるときに流れていた曲
シャルロットマーティン/Charlotte Martin 「on your shore」
キーン/Keane 「hopes and fears」

170 名前:70 ◆DyYEhjFjFU  sage 投稿日:04/10/09(土) 03:45:36
彼女が戻ってきたとき
ぼくはベッドに座って窓の外を見ていた。
低くたれた灰色の雲が風景に一様な光をまわしている。
そのせいか景色は遠近感のない一枚の写真みたいに見えた。
写真の右端には駅へとむかう道があって、ごちゃごちゃの民家の先に消えている。
姫様はその道を歩いて、突然写真の中に姿をあらわした。
かなりの距離を隔てても、ぼくにはその移動する点が姫様だとすぐにわかった。
道に沿ってゆっくりと歩く姫様。
歩くときに正面を見ない癖があって、ちょっと危なっかしい。
道ばたの木や花や、ぼくにはまったく興味のない
何かしら彼女的に「可愛いモノ」を探りながら歩く癖。
右手には白いコンビニの袋が握られていて、果物みたいな何かが入ってて
ちょうどそのくらいの重さで前後に揺れている。
カーテンを閉じる。
CDをトレイに乗っけて再生する。
ベッドに潜りこむ。
布団から頭を出しておおきく呼吸すると
喉がふいごみたいにひゅーと音を立てた。
たしかにだるい。
でも心臓は大きく高鳴ってた。
風邪のせいじゃないことはわかる。
もうじき姫様がここにやって来るからだ。
病院の爺さんの言ってたことはまったく正しかった。
いまや39度に到達しそうな勢いの熱そのものを、ぼくは忘れようとさえしている。
ぼくは健康体そのもの。立って歩くとちょっとふらつくだけ。
一秒だって早く姫様の顔が見たい。

173 名前:70 ◆DyYEhjFjFU  sage 投稿日:04/10/09(土) 03:46:25
母の嬉しそうな高い声が響いて
しばらくあとに階段を昇ってくる足音が聞こえた。
がさがさと音がするのはきっと
右手にぶら下げてたコンビニ袋の擦れあう音。
RedHotChiliPeppersのScarTissue。
終わり数十秒の切ないギターの音が階段の足音に重なる。
いつかMTVで見たあの映像を思い出した。
荒野を疾走するぼろぼろのオープンカーとネックの折れたギター。
奏者は演奏が終わるとなんのためらいもなく
ギターを走行中の車から後方へと、水面に流すみたいに捨ててしまう。
やたらかっこいい終わり方。
ぼくだって何か物事の終わりには
あのくらいかっこよく決めるくらいのことはできると信じてた。
「ただいま」
でもどうだろう。彼女との最後の瞬間にぼくはしっかり立ってることができるか?
「ちゃんと寝てましたか?」
涼しげにさよならって言うことができるか?
「ねね。見てみて」
そんなのまず無理だ。ありえない。
「みかんとリンゴたくさん買ってきたよ。すごい安かったの」
彼女のフロッピィが、彼女をいつか呑みこんでしまうんじゃないかと
ぼくはやっぱり不安でしかたない。
病院で聞いた彼女の小さかった声が頭のなかで
おまじないの呪文のように唱えられたけど、その効果は頼りなくて怪しい。
「あ、ナイフとお皿」
曲はScarTissueからOthersideへ。
ぼくも頭を切り換えないとな。
考え過ぎだよ。
風邪のせいで気が弱くなってるんだよ。たぶんきっと。

 

 

174 名前:70 ◆DyYEhjFjFU  sage 投稿日:04/10/09(土) 03:49:06
驚くほど慣れた手つきで彼女はリンゴの皮をむいた。
左手のリンゴがくるくる回転して、等幅の皮が切りとられてゆく。
彼女は左手からリンゴを離さずに四分割した。ナイフで。
種の詰まったところまでさくっと切りとって
やや大きめな四分の一個がぼくの口もとに運ばれた。
リンゴはひんやりしていて爽快感が口の中に広がる。
味はあまり感じなかったけど、唾液管がめいっぱい開いて
酸味があることを教えてくれた。
彼女もそのうちの一片にかじりつく。
しゃくしゃくと音がして、美味しい?と彼女の声が聞こえる。
ぼくは眠くなる。
彼女がそばにいると安心しきって眠くなる。
ぼくが目を閉じて呼吸を低く、布団の中でもぞもぞして眠ろうとしたとき
彼女はいつになく優しい声でぼくにこう言った。
明日からちょっと会えなくなるかも。
短い間だからすぐに帰ってくるよ。
日本に戻ったら真っ先にヒロのところへ…
そこまで言って彼女は黙りこんでしまった。

 

 

175 名前:70 ◆DyYEhjFjFU  sage 投稿日:04/10/09(土) 03:50:28
日本へ。戻ったら。
オタのメールを思い出した。嬢様はインドへ旅行の予定。
もしそうなったら、おれは名探偵の仲間入りだ。
フロッピィから根こそぎダウンロードされた不可解なデータの中から
それっぽい答えを引っ張ってきたオタ。
オタ。おまえは名探偵だったようだ。
彼女は日が落ちてしまう前に帰っていった。
名残惜しそうにコートに時間をかけて腕を通し
しばらくぼくの頬に顔をくっつけててくれた。
帰ってくるまで待っててね。と彼女は言った。
彼女にぼくの風邪が感染しないといいけど。
インドって暑いんだっけ?
彼女がいなくなったあとの暗がり。
ぼくはその中でただ横になってることに耐えられなかった。
PCを起動してオタにメールした。
だからどうなるってわけでもなかったけど。

今日書いてるときに流れていた曲
キーン/Keane 「hopes and fears」

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