へらへらと勇次はわらいました。
 「凄いよ。凄い女だね、あんたの奥さん」
「寛子に会わせろ・・・会わせてくれ」
 わたしは勇次の顔を暗い目で見つめました。
「離婚するかどうかは、寛子と会ってから決める。
 とにかく一度会わせろ・・・それから二度とそんな調子でくだらないことをほざくな・・・」
わたしの狂気がかったような表情と声に、勇次は少しの間、
 ぎょっとしたようにわたしを見つめていましたが、やがて言いました。
 「いいよ。一度会って話しな。でも奥さんがあんたのとこに戻ることは絶対にないぜ」
その翌々日の夜、わたしは娘を知り合いの家へ預けて、指定されたレストランへ出かけました。
 妻がいました。
半年前と比べて幾分やつれていました。
 顔色も少し青ざめています。
 そのやつれを隠すかのように、化粧は濃い目で、以前は使うことのなかったアイシャドウを塗っていました。
 顔に比べて、身体は全体的にむちっとして、より女っぽくなった感じでした。
胸の大きく開いた上着に、三十八歳という年齢にそぐわない、短めのスカートを履いているためにそう見えたのでしょうか。
 以前は、清楚な印象の女でしたが、久しぶりに見たその姿はどこか生々しい濃艶さを漂わせていました。
 わたしが近寄ってくるのを見て取って、妻はうつむきがちに頭を下げました。
注文を取りに来たウエイターが去った後も、ふたりの間には気まずい沈黙が続きました。
 もともと、夫婦ともに無口な性質です。
 しかし、以前は会話がなくても通い合う何かがあったのです。
 ですが、いまは———。
「——がお前に会いたがっている」
 わたしは娘の名前を口にしました。
 妻はまたうつむいて、瞳を逸らしました。
「もう会えません・・・」
 「何故だ。たとえお前が・・・おれよりあいつを選んだとしても、お前が——の母親だということは変わらないだろ」
 妻は眉をたわめて、わたしの言葉を苦しげな表情で聞いていました。
 そして弱々しい声で言うのです。
「もう、あなたにも娘にも顔向けできないような女になってしまいました・・・わたしのことは忘れてください・・・別れてください・・・」
 「勝手なことを言うな!」
わたしはおもわず、大きな声をあげていました。
 「なあ・・・話してくれ・・・あの日、おれが——を連れて去った後に、どうして勇次のところへ行ったんだ・・・おれたちがいなくなってこれ幸いということだったのか?」
 「ちがいます・・・あの日は・・・」
 瞳を潤ませて、妻は語り始めました。
***
妻は語ります。
 「あの日、あなたと娘がいなくなって・・・しばらくは呆然としていました。
 夜になっても、次の日の朝になっても帰ってこなくて・・・その次の日も・・・」
 目じりに浮かんだ涙を、妻はハンカチで拭いました。
「・・・気がおかしくなりそうでした。
 あなたのご実家に電話をかけようかともおもいましたが、お義父さまやお義母に何と言えばいいのかわからなくて・・・
 不安を紛らわすために、いつもは飲みなれないお酒をずっと飲んでました・・・」
わたしはじっとしていられなくて、
 妻がいなくなってから再び吸い始めた煙草に火を点けました。
 妻はそんなわたしをちらりと見ました。
「お酒を飲んで、また泣いて、そうやってひとりでずっと過ごしているうちに、
 もうどうしようもなく淋しくなってきて・・・・
 どうしても誰かと一緒にいたくなったのです」
「それで勇次のところへ・・・どうして勇次なんだ?
 あいつのところへもう一度行けば、
 取り返しのつかないことになるとは分かっていただろ・・・!」
暗い表情のままで、妻は虚ろにわたしを見つめました。
「取り返しのつかないことになれば、いっそ楽になれる・・・
 後戻りできなければ、もう思い悩むこともない・・・
 そんな自暴自棄な・・弱い気持ちになっていたんです。
 あなたと娘には本当に申し訳ないことをしました・・・」
「その通りだ」
「ごめんなさい・・・・それで彼の部屋に行って・・・抱かれました。
 一度抱かれてしまうと、今度はそれが怖くなって・・・
 罪悪感と恐怖を忘れるために、無我夢中で彼を求め続けました・・・・」
「・・・・・」
「それが終わると・・・・わたしは彼に哀願しました。
 どうか、わたしと逃げてほしい、ここから立ち去ってほしい、と・・・彼は渋りました・・・
 わたしは彼の機嫌を取るために、
 彼が言うどんな惨めなことでもしました・・・
 恥知らずな女です・・・」
わたしは煙草を灰皿へぎゅっと押し付けました。
 狂おしいおもいで、気が変になりそうでした。
「・・・・しばらくして、彼はやっと了承してくれました・・・わたしは彼と逃げました」
「・・・一度逃げておいて、いまさらおれと別れたいと言ってきたのは何故なんだ?
 おれと別れてあいつと籍を入れたい、とおもうようになったのか?」
妻は静かに首を振りました。
 「ちがいます・・・・彼はわたしと籍を入れる気はないと言っています」
「それじゃあ、何故」
「あなたが誰か他の人と、あたらしく幸せになる機会があるかもしれない、
 でも、わたしと別れないかぎり、再婚できない・・・ずっとそうおもって悩んでました。
 一度あなたにお目にかかってちゃんと話したいとおもっていたけれども、
 勇気がなくて・・・決心が着いたのは本当に最近です」
そのときのわたしの気持ちはとても表現しきれません。
 苛立ち、憎しみ、哀しみ。
 それらすべてが混ぜ合わされた妻へのおもいで壊れそうでした。
「おれのことはいい。
 それよりも勇次はお前と籍を入れる気はないと言ってるんだろ?
 その一事だけでも奴がお前のことをどうおもっているか、自明じゃないか・・!
 このままの生活を続けていったら・・・お前・・・どうして・・・どうして」
 (どうして、それが分からないんだ・・・!!)
わたしの血を吐くようなおもいは、言葉になりませんでした。
 「分かってます・・・でも、もう駄目なんです」
 しかし、妻は言いました。
「何が駄目なんだ・・・」
 「子供が・・・・」
 おかしなことに、わたしはそのときの妻の言葉が、咄嗟に分かりませんでした。
 しばらく阿呆のように妻を見つめていて、その腹に添えられた両手を見て初めてその意味に気づきました。
「子供・・・・」
 わたしは呆然として呟きました。
 すべての思考は止まっていました。
「もうどうしようもないんです・・・だから、わたしと別れてください・・・お願いします———お願いします」
 必死でそう言う妻の言葉も、耳に入っていませんでした。
 わたしは死体のように、ただそこへ座っているだけでした。
***
・・・それからしばらくの間、数回にわたって妻と会い、離婚へ向けての話し合いを進めました。
 娘の親権はわたしが持つことになりました。
 慰謝料を求めて裁判を起こすことも出来たでしょう。
 しかしそうなると、また裁判のために店を空けなければなりません。
 娘のこともあります。
 何より、私自身にそうするだけの気力はかけらも残っていませんでした。
 離婚届を妻とふたりで提出した日のことです。
ふたりとも沈黙したままで、役所を出ると勇次が妻を待っていました。
 妻はわたしをちらりと見ました。
 わたしがうなづくと、ゆっくりと勇次へ近づいていきました。
 「終わった?」
 「はい」
 「じゃあ、行こうぜ」
勇次の腕が妻の肩にかかるのが見えました。
 その瞬間、わたしはわけの分からない感情の爆発で我を忘れました。
 気がつくと、勇次を殴っていました。
 不意打ちということもあったのでしょうが、わたしが勇次に殴りかかって成功したのは、過去三度の中で初めてでした。
勇次はわたしに張り飛ばされて、ふらつきながら毒づくと、わたしに殴りかかろうとして、その手を止めました。
 わたしがわらっていたからです。
何故あのときわらったのかは、自分でもわかりません。
 わたしはただただ狂ったように、涙を流しながらケタケタと泣きわらっていました。
 勇次はそんなわたしを気味悪そうに見ると、妻を促して車へ乗り込みました。
 妻は、わたしをじっと見つめていました。
 どんな表情をしていたかは思い出せません。
 ただ、わたしをじっと見ていたことだけ記憶にあります。
 やがて、車は去っていきました。
 あれから七年がたちました。
妻とはあの日以来、会っていません。
 どこにいるか、何をしているかも知りません。
 あれからしばらくして、一度だけ、勇次から封筒が届きました。
 中には写真が入っていて、妊娠中でおそらく臨月間近だとおもわれる妻の卑猥な写真が入っていました。
 おそらく最後に殴られたことへの腹いせで、そんなものを送ってきたのではないかとおもいます。
 その写真については、もう触れたくありません。
数年前、妻に—もう妻ではありませんが—よく似た女が働いていたという店に行ったことがあります。
 かなりいかがわしい店で、入るのも躊躇われたのですが、ともかくもわたしが見たかぎりでは、それらしい女はいませんでした。
 妻は今年で45歳になるはずです。
 わたしはまだ店を続けています。
 世間の目もありますし、何より、妻や勇次の面影がちらつく町から去りたいという気持ちもあったのですが・・・。
 未練がましいとおもわれるかもしれませんが、わたしはまだいつか、妻がふらりとわたしたちの店へ戻ってきてくれるかもしれないという気持ちを捨てきれないのです。


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