258 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/09(土) 23:29:31
彼女のいない夜。
ぼくは部屋から一歩も出ることがなかった。
CDケースの山の中からてきとうな一枚を取りだして再生してみる。
ところがどれを再生しても、何回やっても気分が晴れることはなかった。
ぼくはカード占いでもやるみたいにCDを取りだしソリテアで
くる日もくる日も音楽を再生した。
こんな経験、誰にでもあるんじゃないかな。
ありえるはずのない未来を占って
川岸で小石を拾い、目標の岩にうまく命中できたら、秘密の恋が叶うとか。
だけどぼくの指先が当たりに触れることはなかった。
どの曲も騒々しくて静かすぎた。
ぼくは脳下垂体がイカれたみたいに音を食べ続けた。
決して癒されることない飢え。
おまけに不安まである。
ぼくが熱と体調不良を押して職場に顔を出したのは
彼女のことをごっそり忘れてしまいたいからだった。
朝、爺さんのいる病院に顔を出して「安静に」を貰おうとしたら
爺さんは姫様の顔が見たいと言った。
独り占めしないで先の短い年寄りにも鑑賞させろと笑いながら言った。
ぼくは落ちこんだ。
だから出社したんだ。爺さんめ。
不思議と仕事に没頭していると体調が持ち直してくる気がした。
実際、日中は微熱で治まっていてくれたし
関節の痛みも鋭敏になった触感も、鈍いさざ波程度。
そして数日が経過する頃には、マジでなんともなくなり
爺さんには回復のお墨付きを貰うまでになった。
だけど夜ひとりでいると鬱に襲われた。
音を貪ることに飽きると、ぼくは死体になって眠った。
260 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/09(土) 23:30:35
オタがレスをくれたのは確かそのあたりだったと思う。
つらかった熱が引きはじめ、体調がゆっくりと回復しはじめた頃。
遅い昼食にラーメンを食べてたとき。
ぼくは同僚からの連絡だと勘違いして、しばらくケータイを放置しておいた。
ところが差出人はオタだった。
>気にしなくていい。
>助手席を綺麗にするときつられゲロりそうだったけど。
>PCのアドレスに長めのレスを入れた。
オタのレスは長かった。
きっと長い付き合いの中では最長。
オタは姫様がインドへ行ったことを残念だ、として
そこから先は手元のデータからではもう何も分からないと締めくくってあった。
その他は、オタなりにぼくを慰めてくれようと努力している文面。
もういいんだよ、オタ。
オタの気遣いがなによりも嬉しかった。
オタはレスの最後にこう付け加えてあった。
もし罪悪感が残ってるなら嬢様のことだけ考えればいい。
嬢様はもうフロッピィをおれたちにちらつかせてはくれない。
嬢様がおまえのことを気にいってるならなおさらだ。
どんな小さなことでもいいから何か残ってないのか?
例えば嬢様のデートクラブの名詞とか。
おまえはそこへ電話したんだろう?
でなけりゃ直接行って嬢様を選んだんじゃないのか?
そこに何か残ってないのか?
他の子を買って、嬢様のことをちょっと訊いてみるとか。
バレたらさぞや悲しむだろうけどな。
262 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/09(土) 23:32:45
クリスマスイブの夜。
ぼくはデートクラブの女の子を買ったことがある。
Hはなしっていう条件だったけど
ふたりとも一瞬で意気投合して、ぼくらは不文律の一線をあっさり飛び越えた。
姫様がなぜぼくなんかを気に入ったのか
いまとなってはもうわからないけど
数時間後にはぼくらはホテルの部屋にいるほどの仲になった。
映画を見た後で姫様はぼくに一枚のカードをくれた。
名詞っていうより電話番号とアドレスが書かれただけのインフォメーションカード。
薄っぺらい淡いカーキ色のマーメイド紙。
コピー機に手差しで突っこんだ手製で
爪の先で黒い文字をひっかくとトナーが粉になって剥がれ落ちる。
このカードはぼくの財布のカードホルダに刺さったままになってた。
完全に忘れてしまってた。
すぐにカードに書かれた番号に電話してみたけど
呼び出し音にときどき空電が混ざるだけ。誰も出ることはなかった。
日をあらためても結果は同じ。
263 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/09(土) 23:33:32
どこかおかしい。カードには店の名も書かれていない。
ぼくは姫様の正体を突きとめたいわけじゃなかった。
でも姫様の痕跡を追っていないと落ち着けなかった。
姫様は会いたくなったらここに電話してと言った。
これが店の名詞だと勝手に思いこんでたのはぼくのほうじゃないのか。
どこかで稼働し続ける姫様のフロッピィ専用のPC。
そいつと同じで姫様もスタンドアロンじゃないのか。
でもさ。ここでぼくの推理はいつも頓挫する。
姫様はリッチなのになんでぼくなんかと遊んでるんだろう。
オタは姫様が金持ちかどうかなんて、ほんとのところは分からないと言った。
姫様の影。
その世界の信用に成り立ってるのならその金は無いも同然かもしれないと言った。
・
今日書いてるときに流れていた曲
ホワイトストライプス/White Stripes 「white blood cells」
306 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/10(日) 23:10:51
ベッドに横になってると
思い出すのはあのチャットルームだった。
音楽系のBBSとチャットで構成されたかなりいいかげんな、どこかのクラブサイト。
なにげにふらっと立ち寄って、すぐに出て行くつもりが
どうしたことかそこに明け方まで滞在することになった。
何人かの女の子と雑談して、馬鹿馬鹿しくなり
出ていこうとしたとき、ぼくは風変わりなハンドルネームを見つけた。
名は「窒息しそう」
メッセージは「ふつーにお喋りしてくれるひと希望」
たったそれだけの文字がみょうにひっかかって、ぼくはログインした。
他の書きこみはかなり過激で
「今夜いっしょにいてくれる男の子」とか
あからさまに一夜の値段を表示してるものまであったと思う。
後で聞いた話によると、そこは風俗嬢が待ち合わせに使うサイトだったらしい。
クラブ主催に見せかけたのはパトロールの目を欺くためか。
いや、クラブ主催はほんとうかもしれないけど
そこの常連は風俗嬢とそのチラシ的な文字の羅列。
ぼくは知らずにそこへ迷いこんだ。
307 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/10(日) 23:11:44
そこで見つけたのは
渋谷のネオンサインが遠のいて消えてしまうほど綺麗なお姫様だった。
無料だったし、三時間くらい話こんだかな。
気づいたら明るくなりはじめてて、バイバイする直前に
ぼくらはクリスマスイブにデートの約束をした。もちろん有料で。
姫様が捨てアドに画像を送信してきたとき、ぼくは目を疑った。
嬉しいというより、からかわれたという失意に沈んだ。会えないのかもな。
当日ぼくはのこのこ出かけて行き、そして姫様を見つけて驚喜した。
有料なんだぞ、と自分に言い聞かせた。
指一本触れられないんだぞ、と。
でも高揚した気分はそんなことじゃおさまらなかった。
テレクラの約束の成功率は2割にも満たないと聞いたことがある。
会った相手に満足したかってことになると
この数字はさらに急カーブを描いて低くなるんだろうな。
この数字が正確だとすると、ぼくは奇跡に遭遇したことになる。
308 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/10(日) 23:12:26
仕事で打ち合わせがハネたあと
会社に戻る前にひとりでスターバックスに寄って
それからHMVとかタワーレコードを冷やかしにいく。
学生の頃は中古CD屋で粘って月50枚近く買いこむこともあった。
何年かそんなことを繰り返すと
月に何百枚買おうが、1枚だけだろうが
好きになる曲の絶対量に変化がないことに気づいた。
働きはじめると、ぼくのうろつく場所はタワーレコードなんかの
大型店舗に限られるようになった。
欲しい新譜は発売日から数日以内に買ってたから
冷やかしに行くっていうのはほんとだ。
そんなときは買うことなんて滅多にない。
ぼくの部屋のCDの量は日に日に膨張する傾向にある。
買いこむ速度よりも早く。
309 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/10(日) 23:13:41
ベッドの下やクロゼットや押し入れは
本来入っていて当然のものが入っていない。
そこには、もう絶対に聴くことのないCDが整理されずに詰めこまれている。
今夜もその廃棄処分決定済みのCDの山の中から一枚を選んで再生する。
買った記憶すらない一枚。
はじめて聴く音。
そうやって何夜過ごしただろうな。
姫様の声を間近に聞いていたことが現実的じゃなくなって
あの肌の感触とか、髪の毛の匂いとか
そういう欠片を思い出すのが難しくなってきた頃
姫様はぼくに電話をよこした。
場所は空港のカフェ。
背景音はなく、おそろしく静かで姫様の声にはっきりと輪郭があって
ぼくはCDの再生をストップした。
「会いたいよ。ヒロ。いますぐ会いたいよ」
310 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/10(日) 23:14:51
大急ぎで着替えて家を飛び出した。
飛行機の到着時間から考えても
姫様が連絡をよこした時間はかなり遅かった。
質問はしない約束だし、不可解な行動はいまに始まったことじゃない。
ただ顔が見たかった。
待ち合わせ場所は恵比寿。
今夜はゆっくりしたいからホテルを予約してあると言った。
最初に姫様の口からそのホテルの名を聞いたとき自分の耳を疑った。
どこかの公園かオープンカフェの名かと勘違いした。
超高級ホテル。遠くから見たことしかない。
普段は滅多に着ることのない、それっぽいスーツを引っ張りだし
クリーニングから戻ってきてそのままになってたシャツを着て
ぼくは駅へと走った。
駅前の商店街は賑やかで
いつもたぶんこのくらい賑やかなんだろうけど
ぼくの目には鮮やかに彩色されてより鮮明に見えた。
露店のホロに下がったハロゲンランプ。
呼びこみのおっさんの声。
チャリの長い列と生鮮食材の臭い。
ホームで電車を待つ時間がもどかしかった。
急げ。
・
今日書いてるときに流れていた曲
ホワイトストライプス/White Stripes 「white blood cells」
358 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/11(月) 16:54:11
ホテルに到着してフロントで名を告げると
なんだかやたらそれっぽい金属にルームナンバーの刻まれたタグ付きのキーを渡された。
先に部屋で待っててほしいということだったけど
フロントのピカピカの黒の大理石の床を横切って
入り口が見渡せるロビーのソファに腰を下ろした。
一時間近く待ったかな。
フロントに近づく見慣れた人影。
想像してたよりも手荷物は少ない。
銀色の髪留めが後ろ頭にくっついてた。
ぼくはすっと立ち上がって
エレベータホールに向かう彼女のあとを追った。
まったく気づいていない。
エレベータが到着して乗りこむとき、ぼくは彼女の視界を避けて背後にまわりこんだ。
目的のフロアのボタンを押す彼女。広いエレベータの中はぼくらだけだった。
「おかえり」とぼくは言った。
静かな恐怖に襲われて反射的に正面のドアにぶつかる彼女。
くるっと後ろをふり返ったとき目が合った。
その瞬間彼女の顔がほころんで、それから涙ぐんだような表情に変わった。
ぼくの首に腕を回す彼女。
彼女が泣きそうになっているのは再会できた喜びからだと思ってた。
彼女はぼくにしがみついてこう言った。
「カナが帰ってこないよ」
359 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/11(月) 16:55:53
ホテルの部屋は広くて、ぼくらはその広さをもてあました。
贅沢な調度品。でかいベッド。
そのぜんぶがぼくらには不釣り合いだった。
カーテンを開けると一枚の大きいガラスがあって
そこから渋谷の夜景が見渡せた。
渋谷の街は昼間みたいに明るくて、その光が部屋の壁に反射して
入り口のドアあたりに深い影をつくってる。
明かりを消したまま部屋の隅にまるまってその暗がりに腰を下ろす彼女。
ぼくはあの綺麗なライオンみたいな女の子を思い出してた。
しなやかな体。俊敏そう。どんな声だったかはもうわからない。
彼女は何も言わなかった。
ただぼくにしがみついて震えていた。
彼女の髪にぶらさがった銀色の髪飾り。
それはよく見ると安っぽい一枚のブリキのような金属で
インドの象の神様が切り絵みたいに刻まれてある。
きっとデリーあたりで拾った彼女の言うかわいいモノなんだろう。
彼女の髪を束にしてなんとかまとめてあるけど
髪留めとしては頼りない。
彼女が横になって寝返りをうてば折れて曲がってしまいそうだ。
ぼくの知らないインドの街。
オタがよこした画像の数字に従って彼女は動いたんだろうか。
折れ曲がったデリーの夜の闇。
そこにひっかかってカナが帰ってこないって意味なんだろうか。
360 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/11(月) 16:56:50
ぼくはなにも訊かなかった。
しばらくして彼女はようやく、ただいまと言った。
すごい会いたかったとも言ってくれた。
彼女はバッグをがさがさとひっかきまわして
綺麗に包装された万年筆でも入ってそうな長方形の箱と
いろんな種類のタバコの詰め合わせを取りだし
お土産だと言ってぼくに渡してくれた。
クラッカーみたいだったりチョコレートかあめ玉みたいな
派手でかわいいパッケージ。
とてもタバコには見えない。
彼女は長方形の箱の方は、まだ開かないでほしいと言った。
開くべきときが来るから、と言った。
ぼくは素直に頷いて、彼女の手を握る。
ベッドに誘ったのはぼくからだった。
深夜近くに雨が降り出して
ぼくらはベッドを抜けだし雨に霞んでゆく渋谷の街をぼんやり眺めた。
そのときだったかな彼女がおかしなことを言いだしたのは。
「ヒロってさ、映画とか好き?」
「うん。ふつうに好きかな」
「ストーカーって知ってる?こわい映画。観た?」
361 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/11(月) 16:57:59
だしぬけになんだろうと、いぶかった。
そのタイトルから連想するのはふつう犯罪のそれだけど
彼女がパッケージの写真を描写しはじめたときに
それが何かわかった。
タルコフスキーのそれだ。
ぼくは頷いただけで詳しくは話さなかった。
不思議な映画だね、とだけ言った。
彼女がその映画について何か話したそうだったし
その内容が映画好きのもったいぶった感想なんかじゃないことは推察できる。
彼女は小さな指先でガラスをつつき
なにか絵でも描くようにさっと滑らせた。
「雨」と彼女は言った。
あの映画の中にもたくさんの水が使われてる。
指先にはたくさんの水滴があった。
彼女はガラス越しにとんとんと、
流れ落ちる水滴を爪先でつついていた。
・
今日書いてるときに流れていた曲
レッドホットチリペッパーズ/RedHotChiliPeppers 「californication」
426 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/13(水) 19:22:32
彼女はその映画をどこで観たんだろう。
もう古いし、それにかなりカルトだし。
どう考えても彼女が楽しめるような心温まる物語じゃない。
ところが彼女の話を聞いていると、観たのは一度だけではなかったみたいだった。
その記憶はぼくよりも鮮明で、彼女の話で思い出したシーンもあったくらいだ。
「どこで観たの?」
「インド」ぽつっと彼女は言った。
「へぇ。劇場公開なんてしてるんだ。すごいな」
彼女は違うと首を振った。そうじゃないの。
ビデオ機材と観客席を備えたバーみたいなのがあって
劇場公開の少ない海外作品ばかりをずっと流してる。
インドの人ってね、映画が大好きなの。
ヒロは驚くかもしれないけど、インドにはクラブだってあるし
ミニスカートの女の子だっていると言った。
「ストーカーっていう案内人がいて、ふたりのお客がいて
ものすごく危険なゾーンに入っていくでしょ。
ゾーンのまわりには警官がいっぱい。軍隊だっけ?」
どっちかは忘れた。
「だね。入っていった人たちはまず帰ってこない。
運がよければ何かを持ち帰れるんだけど」
「そう。みんな帰ってはこないの。カナみたいに。みんな死んじゃう」
そこまで話してようやくぼくは気づいた。
彼女は案内人よって導かれるツアーの客人だ。
その危険な旅の参加者に自分をなぞらえようとしている。
427 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/13(水) 19:24:00
観客の心境は複雑だけど、映画の内容は単純だ。
ゾーンって名付けられた場所、ブラックボックスがあって
そこは国が封鎖している。そこが何なのかは誰にもわからない。
そこに忍びこんで生還したやつは財宝を山ほど手にいれている。
巨万の富。
だけどゾーンに無数に転がっている無惨な死に、
見合うのかどうかはぼくにはわからない。
彼女がまわりくどいやりかたで
ぼくにそんな話をするのはなんとなくわかった。
きっとその映画をビールでも飲みながらたまたま観たんだろうな。
暇つぶしも兼ねて。
どこの誰とも知らないやつを待ちながら。
で、彼女は震えあがった。
ゾーンの観光客と自分を重ねあわせた。
いつかは自分もああなるんだと。
こんな話を聞かされてるのにぼくはなぜか冷めていた。
たぶんあのフロッピィに触った夜から
なんとなく気づいてたんだろう。
彼女は嘘をついた。
あのフロッピィの中身はこれ以上ないくらいヤバイ。
財宝のうわさ話とデリーって名の迷宮の地図。
そこへの片道切符。
429 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/13(水) 19:25:06
彼女はインド門とローディ庭園で
同じ男を見かけたと言った。
彼女はそこでは観光客だった。
日本製デジタルカメラをぶら下げ、日焼け止めもばっちりに
日本からはじめてやって来た、ペダルタクシィと土産売りのいいカモ。
観光客がたまたま同じコースを辿ることはよくあるじゃないのかな。
彼女は首を左右に振った。
これはちっとも楽しいことじゃない。
男はインド人でクルターを着ていた。下はデニム。
どうもしっくりこない。目の前の風景に安心できるような自然さがない。
背筋が凍りついたと彼女は言った。
パスポートを作り直さなきゃ。髪型も違えて…
そこまで言って急に黙りこみ
甘えるみたいにぼくにもたれかかった。
彼女を抱きしめて髪に触れると
彼女の唇から漏れるぶっそうな話が、まるでお伽噺みたいに聞こえる。
お伽噺の残酷さが、お話の中では正義にすり替えられるように
彼女の口調はあっさりぼくを落ち着かせる。
「カナへいきかなぁ」
目を閉じたままそう言った彼女は
すぐに寝息をたてはじめた。
よほど疲れてたんだろうな。
・
今日書いてるときに流れていた曲
ベンフォールズファイブ/Ben Folds Five 「whatever and ever amen」
455 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/14(木) 00:23:37
彼女をベッドに寝かしつけたあと
しばらくぼけっと暗闇の中に佇んでいた。
彼女の言ったことを頭の中で反芻して
考えがまとまるまでは彼女のそばにいた。
彼女はなぜかうつ伏せで眠る。
深い眠りがやってくるまでその状態で腕を曲げ
中指の背に唇をくっつけて眠る。
かたちのいいおでこをつつくと、眉間にシワを寄せてむづがる。
子供みたいだ。
彼女の手首をそっと握ってみる。反応はない。
ぼくはライティングデスクの明かりだけつけてPCを起動した。
さすがはいいホテル。DELLのノートまで備え付け。
はじめて触る型は文字が打ちづらくて肩が凝るけど
今夜は気分がよかった。
今夜のぼくはひとりじゃない。
彼女の寝息、わずかに上下するリズムを感じることができる。
ぼくはオタにメールした。
456 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/14(木) 00:24:36
彼女の告白を疑ったわけじゃないけど、その背景が知りたかった。
そんなものがもしあれば、だけど。
帰国しない日本人女性のこと。理由や原因はなんでもいい。
年間どのくらいの数になるのかそれだけでもいい。
ふつうの人には彼女の話は荒唐無稽だ。
だけどそこに秩序を与えて真実かどうか判断できるやつだっている。
そいつはぼくの友人だったるする。
オタは動く闇、日々更新される情報の番人だった。
アンダーワールドの。
オタは芸能人とかプロ野球の試合結果とかロックにはまったく無関心だけど
どこかの自殺志願者にせっせとメールを送ったり
大阪の町工場のアドレスをもとに
どのくらいの資材が動いたかとか、そんな調査には余念がない。
オタは部屋から出ず、かつ餓死することもない。
それどころか身だしなみにはうるさかったりする。
このふざけた矛盾。
普段外出しないオタが運動靴を欲しがるのは皮肉なことだ。
そのコレクションは本人によるとかなりすごいらしい。
オタは一銭にもならない個人的なハッキングやクラッキングには興味がない。
オタは情報の流れの中に眠る砂金を拾う。
つまり、ヒキのくせにぼくよりはリッチだってこと。
やつが見守るデータはかなり信頼できるってことだ。
457 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/14(木) 00:25:39
メールを送信してタバコに火をつけ
彼女の寝顔を見てたら無性にコーヒーが飲みたくなった。
ルームサービスを呼びだし注文を聞いてもらって
届くまで5分もかからなかった。
ドアがノックされるのとほとんど同時だったかな。
オタがレスをくれたのは。
>すぐに調べてみる。
>その前にこんな話なら聞いたことがある。
458 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/14(木) 00:26:39
>CBSの60ミニッツでも取り上げられたほど厄介な事件だよ。
>旅行先でたまたま知り合った現地の人間に
>旅行費用を出してあげるかわりに
>君の国に住んでる依頼者の家族に荷物を届けて欲しいとかなんとか頼まれる。
>なんてラッキーなお話。ところが荷物の中身は白い粉。
>甘言に釣られて荷物を運ぶと運悪く空港のセキュリティにひっかかって
>そのまま牢獄へ直行。二度と出国できない。裁判もない。
>牢獄で自殺した白人女性はかなりの数に上るって話だ。
>ただ、嬢様の場合はちょっと複雑だな。日本人だし。
>フロッピィの中身から推察すると、彼女は何かを運んでるみたいだけど
>薬物とかそんな分かりやすいものじゃないような気がする。
>とにかく一晩欲しい。わかることはすべて教える。
おまえは物知りだな。オタ。
でもなんだか楽しくないよ。愉快な話を期待してたわけじゃないけど。
・
今日書いてるときに流れていた曲
ベンフォールズファイブ/Ben Folds Five 「whatever and ever amen」
514 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/14(木) 23:30:01
彼女と出会っていくつめの朝だったのかもう憶えてない。
午前中にホテルを出てふたりで恵比寿駅まで歩き
ぼくは会社へ、彼女は渋谷へ戻っていった。
今夜は遅くなりそう。
そう言ったのは彼女のほうだった。
お土産の包みを絶対になくさないように。
それから今夜もここへ戻ってきて欲しいと。
会社でのぼくは死んでいるようなものだった。
体調が悪いと会議をすっぽかし、近くの公園で眠り
オタからケータイとPCに送られてきたメールを確認した。
オタは一晩待ってほしいといったけど
まったくお手上げな状態らしく
とにかく時間がもっと必要だと繰り返した。
公園の午後はのどかだった。
以前ならベンチに腰掛けて放心しているリーマンを理解することはなかった。
だけどいまのぼくは完璧なそのコピペだ。
ハトが群がってきては飛び立ち、頭上を旋回してまた舞い戻ってくる。
どうしようもなく平和な風景。
ところがその裏側では正確に巻き取られてゆく夜がある。
それはつねにセットで裏と表の絵柄がまったく違うトランプのカードみたいだ。
表はきっちり格子の決まりきった退屈な幾何模様。
裏は欠けた月。ジョーカー。
515 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/14(木) 23:30:39
日が落ちるまえに渋谷へ向かった。
恵比寿の隣だから、その気にさえなれば歩いてホテルへ戻ることもできる。
ぼくは西武デパートの1階フロアをぶらぶらうろつき
きまぐれでミツコゲランをひとつ買った。
いかにもな仰々しいデザインの瓶。
コピーを読んでみると、生産開始から80年が経過と書いてあった。
姫様の年で使うにはちょい早いのかもな。
一度だけ姫様がその瓶を
ホテルの洗面台シンクの縁に放ってたのを見たことがある。
他のいろんな化粧品に混ざってた。
そんな光景が目に入ってくるのは嫌いじゃなかった。
姫様がそうやって自分のまわりにまき散らした風景。
椅子の横に立てかけたブーツ。
ベッドに置かれたコートとミニスカート。
目黒のホテルでまき散らされたバッグの中身は中でも印象的だった。
ピンクスケルトンのフロッピィディスク。
いまでは思い出しただけで胸が痛い。
歩こうと思った。
ゆっくり歩いたって姫様より早く到着しそうだ。
パッケージを破ってシンクのとこにそっと置いておこう。
姫様は気づかずにバッグにしまってくれるかもしれない。
516 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/14(木) 23:31:39
ベッドでうとうとしているとケータイが鳴った。
姫様からで、ロビーまで降りてきてほしいということだった。
せっかく恵比寿にいるんだしラーメンでも食べようよ。
ぼくが驚かされる番だった。
ロビーのソファでコーヒーを飲んでた見知らぬ女性は姫様で
背後をとられて頭を小突かれてしまった。
短く切られた髪。
色はもっと明るくなってグリコのキャラメル。
黒い日本人女性の瞳。カラコンはしてない。
どんに雰囲気をすり替えても綺麗だった。
ぼくらは手をつないで恵比寿の長い坂を駅の方へと下った。
ラーメンを食べようってことだったのに
どこの店に行くのかは決まっていなかった。
ぼくらはゆっくり歩いて、むしろそれを楽しんでるようだった。
「ヒロってさ。なぜわたしの手を握っててくれるの?」
駅を過ぎて代官山へ。
車の騒音に消されそうではっきりと聞きとれなかった。
でも彼女が何を聞こうとしたのかはわる。
ぼくは何も答えなかった。聞こえないふりをした。
口にするのが照れくさかったせいもあったと思う。
ぼくは声にすることなくこう言った。
それは姫様が
髪に触れることを許してくれた最初の女の子だったからだ。
ぼくを必要としてくれた最初の女性だったからだ。
517 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/14(木) 23:32:37
あてもなく代官山へ向かう途中。
オタがメールをよこした。
短いメールだった。一画面に収まる内容。
>嬢様を押さえとけ。明日の飛行機に絶対乗せるな。
・
今日書いてるときに流れていた曲
シャルロットマーティン/Charlotte Martin 「on your shore」
619 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/16(土) 22:34:31
そのままオタに電話した。
メールなんて待ってられなかった。
オタだってわかっててくれたんだと思う。
たった数回の呼び出しで男の声が聞こえた。
考えてみればぼくとオタは普段あまり喋らない。
あんなにたくさん会話するのにそれは2バイトに変換されるから。
大量の文字と画像データ。
電話の声は別人のように聞こえた。
男の声が本人だとわかるまで
道路沿いの強風の中、オタなのかと叫び続けなければならなかった。
「エアインディア」
とオタは言った。
航空会社の名。
雑音の中そこだけやけにはっきりと響いた。
途切れてしまった探索の小径の先。
オタは天才的なひらめきでもって最後に
搭乗予約のデータの中から彼女の名を引き当てた。
ついてた。ラッキーだったとオタは言った。
たまたま航空会社のデータベースに張りついてたやつがいて。
普段なら最初の連絡だけで数日かかるほど用心深い連中なんだ、と。
リークさせるために金もかかったんだろう。
オタがそれを口にすることはなかったけれど。
620 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/16(土) 22:36:26
すまない。とオタは悔しがった。
新しいことはもう何ひとつわからない。
憶えてるか。3枚のgif。
インドの3つの街。ペダルタクシィの写真。
この街のどれもが電気街なんだと。日本でいうアキハバラ。
まったく知らなかったよ。路地裏に入ればウィンドウズが2ドルで買える。
この場所が選ばれたのには理由があるんだよ。絶対に。
でもそれが何なのかはわからない。
オタのため息。近くて音が割れる。
あのリスト。数字の羅列。
それはレターヘッドに印字されるように整えられてた。
いまでも意味不明の単語がいくつかあって
それは医用電子装置メーカ数社の名に似ている。
さらに疑って読み取れば、液体シンチレーションカウンタだの
染色体画像解析装置の型番にもぴったり重なる。
これはきっと偶然なんかじゃない。
オタは企業情報と口にしかけ
それから、いやあり得ないと一蹴した。
それこそ荒唐無稽だ。
苦しまぎれに頭を切り換えようとして
むこう一月分のインド行き予約状況を調べてみた。
そこに嬢様の名があった。
偽名を使ってないところをみると
これで終わりにしようとしてるんじゃないのか。
もちろんおれの言ってることはすべて当て推量だ。
だけど今夜手を離せば嬢様はもう帰ってこない気がする。
621 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/16(土) 22:37:44
もういいんだよ。オタ。
姫様はここにいる。
ぼくの手を握っててくれる。
目を閉じれば姫様の体温を感じることができる。
・
今日書いてるときに流れていた曲
スマッシングパンプキンズ/Smashing Pumpkins「machina」
652 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/17(日) 02:00:47
代官山まで歩いてもぼくらは店を探そうとはしなかった。
お腹がすいているのかさえ分からなくなった。
どこかに入ってもいいし何も食べなくてもいい。
このまま道に迷ってしまってもかまわなかった。
結局落ち着いた先はフレッシュネスバーガーで
ぼくはオレンジジュースを飲み
彼女はフライドポテトを数本つまんだだけだった。
どうやらあの目黒の晩から巻かれはじめた夜は
完全に巻き取られてしまったらしい。
ぼくらにはもう時間が残っていないようだった。
彼女がそのことを口にすることはなく
つとめて明るく振る舞い、ぼくのために冗談を言い
ホテルに戻ってからも
ぼくのそばにずっといてくれた。
653 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/17(日) 02:02:28
ホテルにあった暗がり。
その闇の中で彼女は荷造りをはじめた。
洗面台にあった化粧品をまとめ
持ってきたどこかのショップの袋から
新しいワンピースを取りだして着替え
PCを起動して短いメールを送信した。
そのあとぼくらはベッドによこになってしばらく眠った。
彼女の心の中にあった凪。
さざ波ひとつない完璧な鏡面。
それに触れた途端
ぼくはもう何も話せなくなった。
彼女はありがとう、と言った。
気持ちが落ち着いていて、とても気分がいいと。
明け方。彼女はホテルの部屋を出て行った。
ふかふかの絨毯のせいで足音すらなく
彼女は妖精みたいにぼくの前から消えていなくなった。
654 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/17(日) 02:03:55
彼女が残して行ったお土産の包みを開けてみた。
派手な極彩色の花が描かれた
いかにもインドの土産っぽい香の箱。
中身はからっぽだった。
代わりに入っていたのはピンクのクマのぬいぐるみだった。
箱の蓋を開けるとき、香のかおりがさあっとひろがって
ぼくはそいつを肺の中いっぱいに吸いこんだ。
懐かしいかおり。
それは目黒の夜、彼女の首筋に残ったあの匂いとおなじものだった。
どうしても思い出せずにいた、あの
あまったるい匂いだった。
・
最後に流れていた曲
スマッシングパンプキンズ/The Smashing Pumpkins 「rotten apples」
664 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/17(日) 02:17:32
おわりました。ようやく。
たぶんいろいろ書きたいことがあったような気がするんだけど
キーに触ったとたん忘れちった。
とにかく最後まで読んでくれた人ありがとう。
すべてのレスをくれた人ありがとう。
シロウトのつまんない話に最後まで付き合わせてごめんなさいでした。
さーて飲も。。。ノシ
777 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/17(日) 23:34:48
すべてのレスに目をとおしました。
最後まで読んでくれた方、レスまでつけてくれた方
ほんとうにありがとうございました。
まとめサイトですが、個人的には不必要と考えています。
ぼくが書き続けたものをリアルタイムで読んでくれた人がいた
ということだけで充分満足しているからです。
ぼくの稚拙な文章が、物語が終わってもどこかに残って晒されるのは
正直恥ずかしくてしかたありません。
再読にもとてもじゃないけど耐えられない内容です。
アップするのであれば期間を限定していただけるといいです。
なるべく短い期間ってことで。
そのあとはなるべくすみやかに忘れられたいです。
誰かが最初のアップから二ヶ月が経ったと書いてましたが
ぼくにはもっと長い期間に感じられます。
初代スレからレスをつけてくれてた人のことを思い出します。
途中いっきにレスが増えて、そこからもうわからなくなってしまいましたけど。
最後まで読んでくれたかなぁ。
毎晩ではなかったし、たいした量でもなかったけど
二ヶ月間書き続けるのはぼくにとってはけっこう大変な作業でした。
そのおかげで貴重な体験ができたと信じています。
さいごにもういちど。
みなさん。ありがとうございました。
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