360 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/10(金) 00:36
お互い迷ってしまわないように
東海道新幹線改札の前と指定しておいたのがよかった。
姫様が広いタイル張りのプラットホーム連絡通路を走ってくるのを
すぐに捕まえることができたから。
ふたりでとりあえずコーヒーを飲み
それから横須賀へと向かう電車ホームを目指した。
お互いあまり口をきかなかった。
姫様はぼくに寄り添うようにして、ぼくの腕をしっかりつかんで歩いた。
ぼくらが目指すのはかの地。
過去の時の中で永遠に凍りついて、絶対に溶け出すことのない場所。
彼女が過去にごっそり失った何かが、そこに散らばっているんだろうかと
考えてみるけど、それはたぶん現実的じゃない。
彼女はただそこを訪れることを望んでる。
自分の傷ついた気持ちがそこにある何かであがなえると、
本気で信じてるわけじゃないだろう。
単純に考えよう。
彼女は弟に会いたがってる。
だからぼくも同行する。
ぼくはウーロン茶と途中来るときに買ったベーコンサンドの包みを彼女に渡して
ホームに滑りこんできた電車に飛び乗り
彼女のために窓際の席を確保した。
ぼくは彼女がよく見えるようにと、対面の席に腰掛けたけど
彼女が小声で「手を握ってて」とささやいたので、彼女の隣に座った。
客はまばらだった。
ぼくはCDウォークマンのイヤリングみたいなスピーカのRを彼女に渡した。
バッハの無伴奏チェロソナタ。
気分じゃなかったら聴かなくていい。
でもさ、こういうときは気分が落ち着く。と姫様に勧めた。
電車がゆっくりと動きはじめると彼女はぼくの手をぎゅと握った。
頭をお互いにくっつけると、頭蓋骨が振動してボーンフォンみたく聴こえないかな。
ぼくの耳にあるのはL。
聴こえてきたのは小さな風の音だった。
車内を循環する空気の流れが、ぼくと姫様の頬をすり抜ける音だった。
539 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/01(金) 21:06:24
間違いなく忘れ去られてるだろうな。
と思ってたのでひっそりアップしとこうと考えてましたが。
レスがしっかりついてたのを読んで正直驚いてます。
驚くのと同時になんだか嬉しい気分でした。
わざわざ保守してくれた人もいたようで…ありがとう。
続きをはじめたいと思います。
その前にレスにくっついてた質問とかちょっと気になったことを先に。
このスレを最初に立てた1はまだいるのでしょうか?
途中からひっそりいい加減にてきとうに書き始めた頃は
まさかこんなにレスがつくようになるとは、ぼくだって想像してなかったので
実はちょっと気にしてたりします。
風俗嬢について2ちゃんらしい世間話を毎晩アップしたり読んだりすることを
楽しみにしてる人だっていると思うからです。
じゃあスレッドを自立したほうがいいかというと、ぼく自身そうは考えてはいません。
つまり、いままでのとおり風俗嬢について書き込む人がいて
そのあいだに埋没するみたいに、ぼくのくだらない文章の塊が挟まる。
ってふうにしたいのです。いままでと変わらないように。
理由は
ひとつには、スレを自立するような大袈裟なものじゃないってことと
ぼく自身このスレタイがとても気に入ってるからです。
70ウザイ!って人もいると思いますけど
できればこのまま続けたいのです。
ぼくを読書家だとか、そんなふうに考えてくれっちゃったりした人達。残念でした。
ぼくは普段、小説とか文学なんてものからはほど遠い人間です。
村上龍も春樹も読んだことありません。
ぼくが書いてアップし続けてる文章は、およそ小説なんて呼べるものじゃないです。
時間軸に沿って話を、ただ「説明」しているだけだからです。
もちろんここには主人公の視点となるべきテーマもありません。
夜、就寝する前の、「すべての喪のためのデタラメな子守歌」と受けとめていただけると助かります。w
お互い喪同士。脛の傷の痛みは分かってますってば。
これから書きます。
が、残務あり。アップの時間は約束できそうにありません。
548 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/02(土) 01:53:50
横浜を過ぎたあたりから電車は闇の中へ。
小さく区切られた田んぼに突き刺さった地方企業の看板やガソリンスタンドのオレンジ色のライトが
窓ガラスに反射した彼女の顔に重なって、視界の隅へと流れて消えてゆく。
まばらに見える民家の灯りはどこか淋しくて
たぶん彼女も同じように感じてたんじゃないかな。
ぼくの手を握る細くて長い指が
彼女の気分にリンクして弱く開かれたり強く閉じられたりした。
寒くないかと訊くと、彼女は平気と答えてから
バッグをごそごそかき回し、それからピンクのクマをひっぱり出して窓ガラスに立てかけた。
クマにも外が見えるように、頭のジンジャエルのキャップを少しひねって自立するように置いた。
クマは足が短くて、胴体が異様に長い。
そのバランスの悪さが愛らしくもあって見ていると切なくなってきた。
ずっと昔、このクマはこの風景を見たことがあると彼女は言った。
ただ風景の流れは今とは逆で、東京駅へむかう電車だった。
そのとき、クマのご主人様はもうこの世界にはいなかったんだと言った。
ぼくはヘッドフォンのLを外して彼女にかけてやり、ボリュームを少し大きくした。
悲しい気分とかつらい気分を、音楽は押し流す力がある。
即効性はないかもしれないけど音楽には傷を癒す力がある。
ぼくはそう信じて疑わないタイプだ。
「ウ ル サ ク ナ イ カ ナ?」
口パクと身振りで彼女に聞いてみた。
たぶんボリュームサイズからぼくの声は聞こえない。
彼女はすぐに理解して「ヘ イ キ」と答えてくれた。
ぼくの耳から音楽がなくなって、電車の規則正しい振動音だけになった。
乗客の話し声もしない。
電車は横須賀を目指していて、それはそんなに遠い場所ではないのに
ぼくには長い時間に感じられた。
それは彼女の痛みがぼくに伝染したせいだった。
彼女のぼくの手を握るその爪が白くなっているせいだった。
549 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/02(土) 01:56:25
横須賀駅に到着すると
ぼくはキオスクの自販機に走った。
ミネラルウォータとコーラを買い
コーラのキャップを外してミネラルウォータで洗い
残りをボトルごとゴミ箱に捨てた。
クマの新しい帽子だ。
姫様の口元にかすかに笑みが戻ってきて
そいつが消えてしまわないうちに、タクを捕まえた。
話では車で5分くらいの距離らしいから、一気にあの場所を目指そうと考えた。
タクの運転手は陽気な中年で
駅前の美味いラーメン屋とか安く飲める居酒屋の話をひたすら喋り続けてくれた。
願ってもないことだった。
余計なことを考えなくて済む。
ぼくは帰りにそこへ寄っていこうと彼女に言い、運転手の喋りにいちいち相槌をうち
たいして面白くもない冗談に声を出して笑った。
運転手がほんとうにここでいいのか?と言った場所は確かに公園だったけど
想像していた雰囲気とは随分違っていた。
そこは公園ではなくて神社だった。
まわりの空き地を盛り土で円形に持ち上げた感じの神社には
滑り台とブランコと模型のような背の低い木が数本あるだけだった。
鳥居は朽ちて色がほぼなくなっていたし、ひどいことに傾いていつ倒れてもおかしくない状態。
滑り台に砂場はなく、ブランコにはブランコが下がってなかった。
「ここでいいのかな?」
と訊いた。
彼女はこくりと頷いた。
ぼくは彼女に手を引かれて歩いた。
足下は暗くて木ぎれとかプラスチックのゴミが散乱しているようで
ここが人の記憶から置き去りにされている場所なんだとわかった。
明かりも音もなかった。
澄んだ空気のせいで星と月がやけにくっきりと見える。
はき出した息が白い雲のように月に重なって、姫様は流れる影。
ずっとずっと長いこと、彼女は渋谷の夜の闇の中で出口を失って苦しんでた。
だからここにある暗がりなんてちっとも怖がってない。
彼女の気配まで闇に溶けこんでしまったとき、ぼくはなぜかちょっと安心した気分になった。
上手くいえないけど、彼女がここへ戻ってきたことを後悔してるようには思えなかったからかもしれない。
彼女が溶けこんだ暗がりを、ぼくも怖いとは感じなかったからかもしれない。
551 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/02(土) 01:58:14
苔に覆われてしまった水道の蛇口。
風が砂をどこかへ持ち去ったあとに残った砂場だった場所の窪み。
首のなくなった狛犬。
高さの半分から下のすべての樹皮を失った樹。
そのぜんぶに思い出があると彼女は言った。
缶蹴りをやるときの陣地があの樹の生えてる場所で、
子供達がつかまって回転するものだから、あの樹は樹皮を失ってしまった。
でも、こうやってまだ生きてるんだと、春にはしっかり芽吹くための準備をしているんだと
感心したように言った。
あの夏。
彼女の弟もここで鬼ごっこやら、缶蹴りをやって走りまわったんだろうな。
彼女だってきっと同じことをやったんだ。
ぼくらはお互いの距離を狭めるでも拡げるでもなく
闇の中で等間隔を守りながら狭い境内を彷徨った。
やしろの崩壊もひどいものだった。
子供達の遊び場所としての機能もとっくに失われていて
いまでは幽霊の噂を提供するくらいしか使い道がなさそうに見えた。
歩くと不気味な音を立てる床板に気をとられていたけど
何かのはずみで見上げた天井はちょっとした驚きだった。
見事に彩色された古い絵の数々。
そのほとんどは間仕切りの格子だけ残して滅茶滅茶に破壊されている。
でも、それが新ピカだった頃の派手さは容易に想像できた。
欠落した部分は、目を閉じた彼女の唇が魔法のように正確に復元してくれた。
黒い牛。
神官と黒い袈裟のたくさんの僧侶。
たくさんの雲。
荒れる海面。
龍。
そして太陽。
彼女は太陽が描かれた天井板の一枚を指さして、はあっと白い息を吐き出した。
あの太陽。
朱に塗られた一枚の板。
ぼくは彼女の顔を見た。頬につたって流れるきらきら光る水滴を見た。
きっと何かを思い出したんだろう。
あの板には何かがあるんだろう。
ぼくはあちこちに散らばるガラクタとゴミの山の中から、物干し竿を探しだしてきて
力任せにその天井板を打ち抜いた。
大量の埃といっしょに、あっさりと板はやしろの床に落下した。
古いデザインの缶コーヒーの空き缶といっしょに。
彼女はその空き缶を拾い、指先でつまんでくるくるまわして確認したあと
ゆっくりと声を立てずに泣きはじめた。
「やっと帰ってこれたよ。ヒロ」
彼女はそう呟いたけど、ヒロがぼくのことなのか弟のことなのかは分からなかった。
彼女はぼくの手を握って静かに震えるように細かく、白い息を吐き続けた。
553 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/02(土) 01:59:46
缶コーヒーは姫様が弟へ、小遣いのぜんぶを使って買ってあげた
誕生日のプレゼントだった。
ところが姫様も途中で飲みたくなって、結局は半分づつ飲むことになったのだとか。
弟は空になった缶をやしろの天井に放りあげ、ゴミ箱には捨てなかった。
弟がなぜ必死になって天井へ投げようとしてたのか当時は不思議だったけど
いまになって考えてみると、なんとなく分からなくもない。と彼女は言った。
天井を壊すからと注意したにもかかわらず弟は缶を投げ続けた。
聞き分けのよかったはずの弟が投げ上げた缶は、外れた板と板の隙間から天井へ突き抜け
太陽の絵に乗っかってとまった。
もう充分。と彼女は言った。
帰ろう。東京へ。
ぼくらは県道を横須賀駅目指して、てくてく歩いた。
都心を離れると、冬の風はとても冷たい。
ゆるくひっかけた彼女の指だけに温度があった。
この土地を訪れてみると、今度は東京のあのホテルの部屋が存在感を失う。
おかしなものだと思う。
ぼくの斜め後ろを歩いてついてくる彼女。
うつむきかげんで、左手にはクマをしっかり握りしめている。
長い髪が突風にあおられて右へ左へ激しく揺れる。
空き缶はちゃんと持ったのかな。
鼻水がとまらないね。
ホテルに戻ったらヒーターを最強にセットして眠ろうな。
その前に何か食べなくちゃな。
頭をフル回転させてみたけど、ろくな考えが浮かばなかった。
ぼくは彼女になにもしてあげることができない。
今夜だからこそ彼女の笑顔が見たくなったのに、ぼくの頭は空回りするだけだった。
なんとかして彼女の笑顔を見なくちゃいけない。
そうしないと、ぼくはまた姫様を求めてしまうだろう。
あのやしろの天井画のように滅茶滅茶に壊してやりたくなるだろう。
なのに、ぼくの頭は空回りするだけだった。
ずっとずっと空回りするだけだった。
586 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/03(日) 01:22:55
横須賀駅は利用者の多い割にこぢんまりしていてぼろい。
日が落ちてしまうと商店街に混ざって、はじめて訪れたものには駅らしく見えなかったりする。
ぼくらは駅間近の海岸沿い直線コースのどこかで立ち止まり
潮の匂いを嗅ぎ、汚れた海面に反射する光の束をじっと眺めた。
この頃には寒さが直接皮膚にまで浸入していて、コートの内側にさえ温度がないように感じられた。
彼女の手も顔も海からの風に撫でられて真っ白。頬の赤みもない。
ぼくは彼女の指先をなんどもこすって摩擦で熱を戻そうとしたけど効果はなかった。
ポケットから指を出し、外気に触れたとたん感覚がなくなる。
彼女の頬を触っても自分の指先に触感がなく、
頬は冷凍されたあと常温で自然解凍された肉みたいな不自然な柔らかさだった。
「夜景きれいだね」と彼女が言った。「あの光にジャンプしたらすぐ死ねるかな」
「1分で死ねるかもね。充分に冷えてるし、あまり苦しまないでいいかもしれない」
彼女が本気で海へダイブするとは思えなかった。
ひどく落ちこんでいて、感傷的になってるのはわかるけど
そんな思い詰めた雰囲気でもなかった。
彼女がジャンプするならいままで何年もそのチャンスはあったはずだ。
ぼくは彼女の気が済むまで付き合った。
彼女の足が駅へむかって動き出すまで長いことそこに佇んだ。
「ねえ。ヒロ」
「ん?」とぼく。
「もしいっしょに死んでって言ったら、どうする?」
ぼくは笑った。
「死なないよ。絶対に。ぼくはお姫様を東京へ連れて帰る。あのホテルで暖かいコーヒーを二人で飲みたいから」
彼女はようやく歩きはじめた。
クマを海に向かって突きだし、ちっちゃなフェルトの腕をつまんで海にバイバイさせた。
そのときぼくは、ここへ来る途中利用したタクの運転手を思い出した。
あのおっさんの話だと、この直線コースの先にたしかラーメン屋があるはずだ。
美味いかどうかなんて、この際どうでもよかった。
ラーメンのスープはどんな不味い店で食べたって熱いはずだ。
道の先に横須賀駅が見え、その手前に記憶してた店の名をみつけたとき、彼女も黙ってぼくを見つめた。
ぼくらは言葉を交わさないまま店のドア目指して早足で歩いた。
意外にもラーメンは美味かった。
彼女は熱いスープをふぅふぅやりながら、鼻をすすり
「ありがとう今夜」と言ってから、またぐずぐず泣きはじめた。
587 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/03(日) 01:25:15
東京駅に戻ったときには日付が変わろうとしていた。
終電にはまだちょっとだけ余裕があったけど
ぼくらは道草しないで乗り換えホームを目指した。
ひどく寒くて寒すぎて笑ってしまいそうなほど寒かった。
体ががたがた震え、治まったと思うとまた震える。
寒くて麻痺してた皮膚にまともな触感が戻ってきたと思ったら
今度は鋭敏すぎるほどで、彼女が絡めてくる指先が直接神経を刺激するみたいに
ぴりぴり反応した。痛いほどだ。
ホテルに戻ったのが午前1時。
体に力が入りにくく、おかしいなと思いつつフロントのソファに押しを下ろし
コーヒーを注文して部屋に届けてもらうよう頼みエレベータに乗りこんだのが1時30分。
体が高熱を発して、とうとう倒れるようにベッドへ崩れ落ちたのがきっかり午前2時だった。
慌てたのが彼女だった。
どう見たって尋常じゃないぼくの赤くなった顔に驚き
額に手をあてて騒ぎはじめ、どこかへ消えたと思ったら解熱剤と風邪薬を持って戻ってきた。
ホテルの常備薬かな、とぼんやり考えながら飲む振りだけしてゴミ箱に捨てた。
いったん発症した風邪を押さえこむ特効薬なんてない。飲むだけ無駄だ。
それにぼくは薬が大嫌いなんだ。
彼女はぼくを厄介事に巻きこんだと、ひどく後悔していた。
こんな冷えこんだ夜に横須賀の闇の中へぼくを連れ出したと、本気で思いこんでいた。
それはぼくが言いだしたことなんだ。
君じゃなくて、ぼくが連れ出したんだ。
ぼくが君を泣かせてしまった。
もしかすると姫様に会った最初の晩に、ぼくは風邪ウイルスに感染していたのかもしれない。
電車のつり革かもしれないし、会社の同僚のくしゃみを知らずに吸いこんだのかもしれない。
ひっそりと潜伏して、たまたま今夜発熱したんだよ。
ぼくはゆっくりとそう話して聞かせた。
子供を相手に話す口調で優しくいい聞かせた。
でも彼女はまったく聞き入れようとはしなかった。
あの神社の境内があまりに寒すぎたために、ぼくが風邪を引いた。
そう、まるで賽銭クジでも買ったみたいに、ぼくが風邪を引き当てたと本気で信じていた。
ぼくは眠った。
自分の意志とは関係なく、突然ひどい眠気に襲われて意識を失った。
それでも深夜に何度か目が覚め、人の気配を感じ、そしてまた眠る。
そんなことを何度も繰りかえした気がする。
傍らのすごく近い位置に姫様のかすかな匂い。
あの甘ったるい香り。
女のやわらかな体温。
姫様がぼくの手を握ってくれている。
このまま死んじゃってもいいや。
こんなに平穏で静かで安堵できる暗がりに包まれて逝けるなら、それでもいいや、と思った。
588 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/03(日) 01:27:27
ぼくは夢を見た。
横須賀駅前の直線コース。
街頭の灯っていない暗闇の中をすさまじい勢いで滑空する。
タクで移動した道順をトレースして、ぼくはあの公園、神社境内に至る。
そこにあるのはあの夏の日。
ぼくの知らない夕方。
子供達の笑顔の群れと高揚した声と騒がしい足音。
その先に白い服の少女がいて、ぼくをじっと見つめていた。
いや、ぼくを通過してぼくの背後にある何かを見つめていた。
ときどき蝉の声が聞こえた。
テレビから漏れてくるようにその音は鮮明で、ありえないほど近い。
ぼくは蝉の位置を探る。
少女が目の前にいる。
少女の手に握られたもの。
中国製の三十八口径。
首にはピンクのクマのぬいぐるみと、菊の紋章が刻印された赤いパスポートが下がっている。
少女はぼくが見つめていることに気づいていないようだった。
素足で立ち、指先は泥だらけで、その指で鼻の頭を触ったために
鼻の頭まで泥で汚れている。
その指先が三十八口径の遊底にも触れる。
遊低には遊びがあり、それが可動することがわかると
指先はかちゃかちゃと音のする重たい金属を引っ張ろうとムキになる。
リコイルスプリングが、少女の指の動きに逆らって遊低を押し戻そうとした瞬間
三十八口径は少女の手のひらで踊り
乾いたパンという音をたてて地面に落下する。
一瞬のできごと。
たっぷりと汗をかいて目覚めるぼく。
目の前にホテルの部屋の天井があり
驚いた姫様がベッド脇から立ち上がってぼくを覗きこむ。
彼女はなにか言っていた。でもよく聞き取れない。
外はまだ暗い。
何時くらいなんだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、姫様がボカリスエットのペットボトルを口に運んでくれた。
ありがとう、も言えないままぼくはまた眠りへと落ちる。
ひどくつらかった。
風邪の熱も、いま見た夢も。
遠いどこかからバッハの無伴奏チェロソナタが聞こえてきた。
姫様がヘッドフォンつけてくれたのかな。ぼくのために。
音楽には傷を癒す力がある。
ぼくはそう信じて疑わないタイプだけど、
彼女がしっかり握っていてくれる手のひらの触感には、とうてい及ばない気がした。
618 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/03(日) 16:34:16
6日目の朝。遅い時間。
姫様に揺り起こされて目覚めた。
最後の日だっていうのに、体がさっぱりいうことを聞いてくれなかった。
熱はいくらか治まってたけど眠くてしかたなかった。
彼女がコンビニで買ってきてくれたスープとパンを時間をかけて食べ
お礼を言って、彼女にはもう帰るよう勧めた。
楽しかった新年の数日。もう充分だ。
これ以上引きとめても可哀想だし。
午後も眠って過ごしてしまうだろうし。
彼女は何も言わなかった。
ぼくの手からパンの包みをとって捨ててくれ、
飲みきれなかったスープを引き受けてくれた。
それから彼女は裸になってベッドへ滑るように潜りこんできた。
ひんやりとした彼女の肌。
シーツの衣擦れの音。
長い髪が、かわいいおっぱいに垂れてふんわり揺れる。
寝てないから、寝る。と彼女は言った。
午後から雨が降りはじめた。
ホテルの部屋はもの音ひとつなくて
午後の美術室みたいな冷たい静けさがあった。
サイドテーブルの上の時計の振り子が
モーターの入ったガラスドームのなかでくるくる回転している。
午後1時を過ぎた頃に、彼女の寝息を聞いた。
ぼくの記憶はそこで途切れていた。
後に残ったのは浅い眠りの中で見た夢。
いまとなってはどうでもいい、アジアのどこかの街並みと
一枚のフロッピィディスク。
619 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/03(日) 16:35:37
暗い部屋の中でまた目覚めたとき
彼女はもういなかった。
クロゼットからも、バスルームからも
彼女がここにいた痕跡すらすべて消え失せていた。
シンクの回りにまき散らされた化粧品も
ベッド脇にあった紙袋の山も
一切合切が突然この部屋から切り取られて魔法のように消失した。
電源が投入されて待機画面になったままのノートPC。
サイドテーブルにあった一枚のメモ。
ぼくはふらつきながら、トイレへ立ち、そのあとで
冷蔵庫からペリエを取りだしてがぶ飲みした。
焦って飲んだせいで鼻に逆流して、止まらない咳になった。
日が落ちてから熱が体の内側から再び沸き起こり
燃えるように熱かった。
体がひどくだるく、鉄みたいに重く、関節がぎしぎしときしむようだった。
ライトのボリュームに手を伸ばしてなんとかねじることができた。
メモにに残された筆跡は達筆で、こう書かれていた。
また熱が出るのかな。
ちょっと心配です。
だからクマを置いていきます。
クマがヒロを見張っています。
このクマはわたしの命より大切です。
だからまたわたしに電話して
必ずわたしのバッグに戻してください。
p.s.
ヒロの大切なお友達に連絡しておきました。
遅くならない時間に迎えにきてくれるはずです。
それまでベッドを出ないように。
おっけい?わかった?
恵子
620 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/03(日) 16:37:36
姫様はアドリブがきく。
彼女のあどけない仕草とか
細くて色っぽい声とか
綺麗な顔立ちに誤魔化されて肝心なことを忘れていた。
頭のいいこなんだ。
姫様は。
部屋の電話が鳴り、フロントから来客を告げられた。
午後10時をまわったあたり。
部屋にオタが入ってきたとき、ぼくは床に座りこんで鼻水を垂らしていた。
拭き取る気力もなかった。
「面倒かけやがって」
オタは入ってくるなりそう言った。
でも言葉ほど刺は感じられなかった。
ぼくはわけが分からずにオタにごめんと、なんども謝った。
オタは外に出るのが嫌いなんだ。
ところがここまではるばるやって来てくれた。ぼくのために。
オタは車を持っているヒキだ。
廃車寸前の四駆。
ぼくはその助手席に収まって鼻水を垂らし続けた。
車がウインカーを点滅させてどこかの交差点を曲がったとき
オタはこう言った。
「前言撤回だ。おまえの嬢様はできがいい。
できのいい女はおまえにはもったいない。
だからもう手を出すな。
ホテルの精算も済んでた。
送られて来たメールは丁寧で簡潔で、二重敬語もなかった。」
だからきれいさっぱり忘れろと言った。
おまえの手にはおえない、と言った。
それから、ぼくは泣き出した。声に出して。
ほんとにごめんな。オタ。
愛してるよ。心底。
車が自宅に到着する前にぼくは嘔吐してゲロった。
四駆のシートに派手にまき散らした。
ところがオタは窓を開けただけで、何も言わなかった。
ぼくの手に握られたピンクのクマ。
鼻に近づけるとかすかにミツコの香りがする。
姫様は、このクマがぼくを見張っているといった。
でも、それは違う。ぼくがこのクマなんだ。
君のところへ帰りたくて胸が張り裂けそうだ。
ぼくはいつだって一秒たりとも間隔を開けずに君のことを考えている。
君の胸こそがぼくのいるべき場所なんだ。
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